吐き出す場としてのブログの有用性

Twitterと呼ばれるミニブログサービスもそうであるが、個人の考えや感じたことを吐き出せる場所があるというのはよいことなのではないだろうか。


私はここに吐き出したい。
こういうことを考える人間もいるのだということを誰かに知ってもらいたいのかもしれない。つまりは承認要求によるものなのだと思う。


私は吐き出す。

「どうすれば自分を変えられるかそればかり考えている」と。

ここのところそのことばかり考えている。

自分を変えたい。ということは、つまり成長したいと言い換えることもできる。
これといって秀でたところがない自分だ。これなら負けない。これは得意だということがない。
これなら負けない。これは得意だというものが欲しかった。いや、今も欲しい。平凡で普通の人間というのが私にふさわしい言葉かもしれない。


真面目だけがとりえ。仕事も真面目にやってきた。しかし、今、立ち止まり、出てくるのは涙だ。
真面目にやってきた。しかしながら、何も残っていない。自分はこんなことをやってきたんだ、と言えるものがない。自分は一体今まで何をしてきたんだろうと、自分はどこか成長しただろうか。実際日常に流され、ルーチンワークに辟易して、たいしたことをしていない自分が今まさにここにいる。


ただ歳をとり「大きくなった子ども」の自分。学生時代見ていた黒板やホワイトボードがパソコン画面に変わっている、ただそれだけだ。


ただ、学生時代の黒板やホワイトボードとは違い、パソコンはこちらから画面を変えることができる。すなわち、ブログというツールを使って文章を発信することができる。ただ見つめるだけで終わらないのが学生時代の黒板とは違うところだ。



このツールを有効に使わない手はない。



今、これといって何かしたということが思い浮かばない。自分は何も残していない。いたずらに歳をとっているだけだ。そう思う自分の状況を自分に突きつける。文章にして突きつける。自虐的かもしれない。が、とにかく自分が今感じていることを吐き出し、残しておく。現状を把握しないまま前へ進むことはおそらく難しいからだ。自分がどこにいるのかわからないのに目的地にはたどりつけないことと同じだ。


今自分がどういう状況にあるのかをまずは把握すべきだ。



ただ、単に「自分はなにもできていない」「自分はダメダメ人間だ」と自己卑下するわけでも自己否定するわけでもない。むしろ、こうしてブログというツールで文章化し公開し、現状を刻み付け、もう一段階上へとのぼっていきたい。


誰かに読まれることは刺激になる。いつかは成長した自分をこの場で書くことができるかもしれない。あのときは、こんなダメダメ人間だったけれど、今はこういう風に成長した、と書ける日がくるかもしれない。いや、書きたい。


ダメダメ人間でも、それなりに幸せ。生きてるだけで幸せだ。と言い切ってしまう手もある。しかし、果たしてそれでいいのかと思う自分もいる。自分の場合、現状に満足してそれ以上進めなくなってしまうのではないかと。満足して先に進まなくなってしまうことを何よりも自分は恐れる。


自分は先に進みたい。
なにかを残したい。
これという誇れるものが何か欲しい。
目指すものへと近づきたい。
憧れを憧れのまま終わらせたくない。
そんな決意めいたものを持っている今の自分を忘れたくない。


こうして今感じていることをブログに吐き出したところで、かなり自分の頭がクリアになっていることに気づく。これはブログの有用性、ブログに書く効果というものではないだろうか。


もやもやとしたまま抱え込むよりも、すっきりと文章にすることを私は好む。誰かに読まれるかもしれないということで、真剣に考えながら文章にしている。できるだけわかりやすく文章化すること、これは自分にとっても有用だ。


ブログをいかに活用するかそれは個人の自由でもある。
私は「吐き出す場としてブログの有用性」をみた。そのことを言いたくてエントリした。